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私のスキー史研究から伝えたいもの

研究紹介
「私のスキー史研究から伝えたいもの」

新井 博 スポーツ科学部教授

※所属や肩書は発行当時のものです。

はじめに

 はじめまして、4月に開設されたスポーツ科学部の新井博といいます。これまでの私の研究を簡単に紹介します。研究の対象はスポーツで、「スポーツ史」という分野になります。スポーツについて歴史的に研究を行う分野です。中でも、雪上を滑るスキーに関しての歴史的な研究を行ってきました。大学院時代までスポーツクラブについての文献研究を行っていましたが、地方大学に就職したことをきっかけにフィールドワークを始め、町や村でスキーについての生の資料に触れる醍醐味を味わい、今日まで続けています。直接、資料に触れる研究方法が自分に合っていたのだと思っています。約30年間のスキー史研究の内容について、大凡10年刻みに主な研究について紹介します。

最初10年間、北陸地方の用具史を絡めた新しいスキー史

 福井県に赴任した時、北陸地方ではスキーの歴史が殆ど研究されていないことから、発祥地新潟県からのスキー導入や広まりについて、スキー板やストックといった用具の供給を含めて研究を始めました。用具の視点を研究に取り入れたのは、私のオリジナルでした。用具が無ければスキーは出来ず広まらないわけですから、後でまた詳しく。

 真の目的は、明治44年オーストリア(墺国)の軍人レルヒ少佐により新潟県高田で紹介されたスキーが、高田から全国に広まった仕組みを北陸地方に注目して解明することでした。広まりの背景、パイオニア、推進組織、併せて用具の供給(製造や販売から)を柱にして調べてきました。新たに用具の供給を柱に加えた理由は、その辺の石や棒切れを用具にして、近代スポーツをすることは出来ません。ボールやラケットなど手の込んだ用具が必要で、さらに場所・施設も必要なのです。ところが、従来のスポーツ史研究の対象は、日本への導入、教材、各種スポーツ、人物・思想、外国スポーツ、女性スポーツ、オリンピックなどでしたが、その中で用具は意識されていませんでした。私が用具を意識した30年前頃は、スポーツが高度化や大衆化する上で、用具の進歩や製造まで重視されていなかったのです。

広まりの分析に用具史を加えて見えたこと

 福井県での普及は、大正3年高田の講習会に参加した大野中学校の体操教師桑原耕太がスキー技術を習得し、用具を持ち帰ったことからでした。以後、桑原は高田から用具を取り寄せながら、大野中学校で生徒たちに広めていきました。しかし、大正時代末から学外にも広まり、大野スキークラブが誕生し県内全体に広めました。2・3年の内に4・5個のクラブが県内に誕生し、町内スキー大会から県下スキー大会まで開催されました。

 大正末から昭和5年頃迄の急速な広まりの背景の1つには、政府がスポーツ分野でも人々をまとめる目的(スポーツ政策)で、役人・教員・青年団によるスキークラブがスキーを広めたことが挙げられます。また、大野で大工から身を起こした用具製造業者が4軒誕生したことから、高田から用具を取り寄せずに済んだことが県内に広まるポイントでした。大正14年に製造販売を始めた尾崎氏は当時のことを「東京で丁稚奉公をしていた時、新潟辺りでスキーが大流行、必ず全国的になるから福井に戻りスキー作りを始めた」と述べていました。

続く10年間、パイオニア・レルヒ研究

 研究を始めて間もない頃、当然、研究済みだと思っていた肝心の日本への導入について解明されていない事実に気づき、びっくりしました。従来の研究は明治44年オーストリアの軍人レルヒ少佐が高田で紹介したと記しているだけで、彼の生立ち、スキー経験、来日経緯、来日中の指導の経緯、来日中スキー以外の活動、帰国後の人生などは不明でした。これでは日本スキーのルーツが分からないばかりか、何処かで繋がっている筈の世界の近代スキー史と日本のスキー史が分断されたままです。「何時か、自分の手で解明しよう」と思いながら研究を続けていると、在外研究によるオーストリアで10 ヶ月間の研究機会を貰いました。「千載一遇のチャンス」とばかり、渡航前2年間を準備にあて、在外中はレルヒの誕生から死去まで足跡を辿り、生立ち、スキー経験、来日理由、帰国後の様子など来日中のこと以外は、詳しく調べました。これ程充実した資料を集める日々を送ったことは、後にも先にもないと思っています。帰国してからは、持ち帰った資料読みとレルヒの日本滞在中の活動を全力で調べましたが、レルヒ研究に要した時間は合わせて5年以上になりました。

パイオニア・レルヒ研究から見えたこと

 レルヒは、明治元年ブラチスラバで将校を父親に持つ家庭に生まれ、ウィーンやプラハの中等学校で学び、ウィーンの士官学校・陸軍大学校を優秀な成績で修了し、部隊配属を経て陸軍参謀本部付将校となりました。明治34年ウィーンの参謀本部で働き始めた時、アルペンスキーの祖であるズダルスキーの下でスキーを始め、1番弟子としてスキークラブで技術、ツアー、レースを指導し、更に陸軍で軍事スキー発展にも功績をあげました。

 第一次大戦の前夜、陸軍参謀本部はロシア軍の動向を最も懸念し、動向を把握するためにロシア軍に影響を及ぼした日本軍の様子を探るために、明治43年11月レルヒを日本軍の視察に派遣したのでした。彼のスキー指導は、来日直後の日本軍との話し合いで決定しました。日本軍は、外国軍隊が既にスキー訓練をしていることや八甲田山での苦い経験から、レルヒにスキー指導を望んでいました。一方のレルヒは、都会より田舎の師団で素の日本軍を視察したいと考えていました。両者の意向は、冬季はレルヒが1年目高田と2年目旭川師団で日本軍にスキーを指導し、冬季以外は彼が両師団で軍事視察することになったのです。

 レルヒが帰国した翌大正3年に第一次大戦が始まり、彼はロシア、イタリア、フランス等の最前線で軍を率いて戦いました。大戦後大正8年に退役すると、ウィーンで貿易会社を起こしましたが、間もなくして身を引き、後は退役軍人として参謀本部付将校やアジアに関する知識や経験を生かして、軍事雑誌や軍事新聞の執筆に力を注ぎました。彼の活動は昭和20年に死去する迄続きました。

 レルヒの研究によって、日本スキーのルーツはオーストリアのアルペンスキーであること、また近代スキーと日本スキーはレルヒによる導入によって繋がっていることを解明しました。しかし研究の成果はスキー史を超えて、軍事史・日墺文化交流史においても新たな事実を掘り起こすことになり、広く意義を持っていました。

その後10年間、日本でのスキー史

 今日までの10年は、レルヒ研究で頓挫していた昭和5年以降から太平洋戦争突入までの約10年間のスキー界の様子を明らかにしました。概略すれば、昭和5年頃から昭和12年までは、スキー界が取り組んだ競技力向上について、昭和12年から昭和16年までは、日中戦争下でのスキーによる銃後の体力養成と精神作興について解明しました。

日中戦争下のスキー史からみえたこと

 大正末より昭和5年頃までに、政府によるスポーツ政策の実施と用具供給体制の発展から、スキーは全国的に普及しました。政府は、新たに昭和15年に迎える皇紀2600年の祭典として、東京でオリンピックを開催することを決定し、全スポーツ界が競技力向上の道を一斉に歩み始めました。スキー界では昭和7年以降、昭和11年のベルリン・オリンピック大会に向けて優勝計画を樹立し、全日本スキー連盟は総力を上げて競技力の向上に取り組みました。昭和7年に連盟は競技力の向上のために組織強化を行い、昭和8年から国際大会へ選手を積極的に派遣し、国際大会の経験を積み、情報の収集に力を注ぎました。

 ところが、昭和12年の盧溝橋事件により日中戦争は泥沼化し、昭和15年にオリンピック開催の余裕は無くなり返上しました。政策は一転して従来の競技力向上から、総力戦体制下での「銃後の体力育成と精神作興」がスポーツ界の中心課題となったのです。スキー界では毎年2月に各地で全国スキー行進を実施して、精神作興と耐寒訓練を目指しました。また、同時期に全国スキー講習会を各地で開催し、選手養成の競技スキーから一転して、体力育成と精神作興のために国民的な大衆スキーの促進を全国的に実施したのでした。

まとめにかえて

 見てきたようにスキーは、導入されて10年間程は市民にとって遊びと言えたかもしれません。しかしその後は、国と国の威信をかけたスポーツ競争において競技化され、また戦時体制下になると銃後の守りとして体力養成を任されたのです。つまり、いつの時代も「高だかスキーなれど、遊びにあらず、目的遂行の手段なり」であった気がします。スキーとは私たちにとって如何なる存在なのか、今後も戦後のスキーについても考えていきたいと思います。

新井 博 スポーツ科学部教授

※2017年8月15日発行 日本福祉大学同窓会会報119号より転載

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