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魔法はひとつ

日本福祉大学付属高等学校
創立55周年記念事業 文化講演会
「魔法はひとつ」

講師:
角野 栄子 氏(作家・日本福祉大学客員教授)
日時:
2014年5月31日(土)

※所属や肩書は講演当時のものです。

物を書く人間になるまで

 『魔女の宅急便』は1985年に第1巻が出ましたが、この話をつくるきっかけは、そのずっと前にありました。私が大学1年生のとき、「LIFE」誌に「鳥の目から見たニューヨークの風景」という写真が載っていました。当時、私は物を書く人になるとは全く思っていませんでしたが、その写真を見て物語を感じ、日常とどこか違うところに行けるような感覚を持ったのです。その後、私は大学を出てから出版社に勤めたり、結婚してブラジルに行ったりと、いろいろな経験を経ながら、物を書く人にだんだん近づいていきました。

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『魔女の宅急便』1巻(1985年)

 ブラジルで仲良くなった男の子の話を書いた『ルイジンニョ少年ブラジルをたずねて』というノンフィクションの本が、私の処女作です。そのころ、ちょうど日本が万博を数年後に控えていて、世界のいろいろな国で暮らしている子どもの話をシリーズ物として出そうということになったのですが、私がそれまでに書いたものは、戦時中に書いた兵隊さんに送る手紙と、学校のつづり方、大学の卒論だけだったので、うまくいくはずがありません。編集者が見ては首をかしげて、「もう一度どうにかなりませんか」と言って帰っていく。私は何回も何回も繰り返し書き直しました。そのうちに、それが少しも嫌ではないことに気付き、もしかしたら私は書くことが好きなのかもしれないと思ったのです。

 それで、今度はお話を書いてみようと思うようになったのですが、まだ子どもが小さかったので、子どもを追い掛けながら、首から画板を提げて洗濯挟みで挟んだ紙に書くという生活が7年間続きました。いっこうに本にはならず、終わりまで書けない中途半端なものばかりがたまっていきましたが、やっと一つだけ書き上げたものを雑誌に投稿して、私の物を書く仕事が少しずつ少しずつ進んでいきました。

『魔女の宅急便』が生まれたとき

 私がブラジルに行ったのは1959年です。外国に行きたいと思っていた私と主人は、移民として、意気揚々とブラジルに旅発ちました。ところが、ブラジルでは英語が全く通じないことが、到着してから分かったのです。私は本当に愚かなことに、外国に行ったら英語が通じるものだと思っていました。自分を表現する手段がなく、生活習慣もまるで違う。買い物一つするのも大変で、本当に帰りたいと思いました。

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 日本に置いてきた父を思い、泣きの涙で毛布をかぶって寝ていたのですが、2週間ほどして、ふと私はこのままではいけないと思い、立ち上がって閉めきっていた窓を開けました。すると、ふうっと風が吹き込んできたのです。その新鮮な風が体に当たったときに、自分はここにいるのだ、もしかしたら私はこの町で生きていけるかもしれないと思いました。

 『魔女の宅急便』のキキも、旅立って、新しい町で暮らしはじめたとき、魔女だから変なことをするのではないかなどと言われ、すごく悲しい思いをします。そのとき、キキは窓を開けます。風が向こうから吹いてきて、そちらを見ると、手を振っている女の人がいました。その女の人が、魔女の宅急便のお客さん第1号になってくれました。私が経験したことを、13歳の魔女に重ね合わせて書いたのです。

 13歳というのは、訳の分からない年代です。いろいろ分からないことがあるのだけれど、自己主張だけは一人前にしたい、大人として認められたい。それでも自立はできていないので、甘ったれたい。そのような振幅の激しい年齢の子が一人でほうきに乗って暮らしたらどうなるだろう、それを話に書いてみたいという思いにちょうどかぶさるように、鳥の目から見たニューヨークの風景を思い出しました。私は、想像の中で飛ぶことができる物語がこれなのではないか、きっと書くのは楽しいに違いないと思いました。

魔法はひとつ

 まず決めたのは、13歳の女の子とジジという名前の黒猫、それと、魔法は一つにすることです。ほうきで飛ぶ以外の魔法は、使わないようにしようと決めました。

 5歳ぐらいのときに、『アラジンと魔法のランプ』という物語を、父に聞かせてもらったときのことです。古ぼけたランプをきゅっきゅっと拭くと、すごい怪人が出てきて、何回でも願いをかなえてもらえます。戦争直前で物もなかったころなので、私はこういうランプが一つあればいいなあと思いました。しかし、同時に、何かこれはずるい、そんなふうに解決するのだったら何でもありではないかと思ったのです。

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 私の中にはそういう気持ちが小さいときからあり、また、ブラジルで言葉が通じないときにどれだけ考えたか、どれだけ工夫を重ねたかという経験もありました。私が最初に書いた『ルイジンニョ少年ブラジルをたずねて』の主人公ルイジンニョ少年は、12歳の男の子です。私がブラジルから帰りたいと思っていたときに出会った、同じアパートに住んでいた少年です。彼は、私のポルトガル語の先生になってくれました。12歳の男の子が想像力を働かせて、私が何を言いたいのかを考えながら、言葉を教えてくれたのです。

 彼は、「僕のコラソン(心臓)と栄子のコラソンは同じ音を立てている。だから分からないわけないじゃないか」と言いました。私は、互いの想像力の行き交いによって、ほんの少しの言葉でも人は伝え合えるということを知りました。ブラジルは移民の国ですから、みんな言葉が違うし、生きる暮らしも違います。そういう中で暮らしていくためには、コラソンの音に頼るしかありません。胸の鼓動に頼って、想像力を豊かにして、互いに理解し合わないと、うまくいかないのです。そんなブラジルの暮らしを一つ一つクリアしていったとき、私はそこに魔法の力を感じました。

 そんな経験から、何でも解決してくれる魔法ではなく、使える魔法がたった一つだったら、何か起きたときにいろいろ考えるだろう、それをどれだけ広げて暮らしていくかを書いたら、物語も面白くなるのではないかと思いついたのです。

 暮らしの中には魔法がいっぱいです。リモコンもファックスも、魔法のようです。その魔法を一つずつ獲得していくことで、私たちは自分の中にある、ある種の力を一つ一つ失っていくのです。私は『魔女の宅急便』で、魔女が魔法をだんだん失っていったのは、全くの闇と音のない世界がこの世からなくなったからだと書きました。震災後の停電で真っ暗闇になったとき、私は暗い中で思い浮かべることがどれだけあるかという感覚を久しぶりに味わいました。私たちは、魔法のように便利な暮らしの中で、持っている力を少しずつなくしていっているのだと思います。それが良い悪いというのではありません。しかし、それを失わないようにしたい、人の生きる力のようなものは持っていたいと私は思うのです。

こちらの「見えないものを想像する」

 『魔女の宅急便』を書きはじめたときから、もう一つ心に掛かっていたことがあります。それは、どうして男の子は魔女になれないのかということでした。魔女は「女」と付いていて、女と決まっています。

 第6巻目で、キキは双子の子どもを産みます。1人が男の子のトト、1人が女の子のニニです。男の子は「同じお母さんから同じ時刻に生まれたのに、どうして僕は魔女になれないの」という悩みを持ちます。

 「魔女」を意味するドイツ語の「ヘクセ(Hexen)」には、昔々の言葉をたどっていくと、「垣根の上に立つ人」という意味があります。昔の村は、外敵を防ぐために城壁に囲まれていました。そして、夜になると外は真っ暗闇、内はランプが灯って明るくなります。その城壁の上に立って、明るい見える世界と暗くて見えない世界を想像でつないでいたのが、魔女だといわれています。

 暮らしの中で、見えるものを見ながら、その中に隠れている見えないものを見ようと心を動かしていくのが、魔女なのです。厳密に言うと、魔女は科学者です。最初はお母さんの、何とかうちの子どもを丈夫にしたいという思いから始まりました。冬になると、葉っぱが落ちてまるで死の世界のようになってしまうけれど、春になると、芽が吹いて花が咲いて実がなる。木の中にある力を体に入れたら丈夫な子が生まれるのではないかという平凡な母の願いのようなものから、魔女というものは始まります。だから魔女は女なのです。

 キキは、宅急便という仕事を通して、昔々の魔女の心を表しています。彼女は、預かった物の中にある物語を想像して運びます。何かを想像して、より良いものに工夫して生きていきたい。そこに生活の潤いや冒険する心、わくわく感があるのではないかと思います。そのような魔法の力は、誰にでもあるのではないでしょうか。

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物語の扉を開けて、魔法を見つける

 これからはお話を書いてみようと思ったときに、私は小さいときのことを思い出しました。私は5歳のときに母を亡くしたので、父がいろいろな話を聞かせてくれました。そのときの楽しさを思い出すと同時に、寂しいときには違う人になる物語を空想することが度々あったことを思い出しました。私はそれを、「家出物語」と呼んでいます。

 最初は、「こんなうちは出ていってやる」と、泣きながら玄関の戸を開けて出ていく想像から始まります。歩いていくと、向こうから親切なおじさんとおばさんが来ます。「あなた、どこの子?」「おうちはないの」「それじゃあみなしご?」。そのころ、私はみなしごに憧れていて、「うん、みなしごなの」と言うと、「じゃあ、うちにいらっしゃい」と家に連れていってくれて、おいしいものを食べさせてもらい、うぐいす色のカステラと24色のクレヨンをもらいます。

 そんな想像をすると、私は元気を取り戻しました。当時から、見えない世界を想像して、その物語の中に身を置くと、そこから力が出てくる、魔法のようなものが立ち上がってくるということを、体で感じていたのです。魔女のように、見えない世界から少しずつわくわくする気持ちを取り戻し、また落ち込んで取り戻すの繰り返し。そのようにして魔法を自分の中に持っていく力こそが、魔法なのではないかと思うようになりました。

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 私が玄関を開けて家出をしたように、物語には表紙の次に扉があります。扉を開けて不思議な世界に行き、自分というものを一つ一つ拾うがごとく想像して歩いていくのが、物語です。その中に、魔法を見つける何かがあるのではないか。それを信じて物語を書きたいと思っています。

 私は、人と話をするとき、相手が何を思っているのかを、ルイジンニョ少年が私に対してしてくれたのと同じように想像します。それは人と人とをつなげ、理解を深め、何かやりたいという気持ちを起こさせてくれます。想像の中には、何かをつくりたい、何か自己表現したいという気持ちが絶対にあると信じています。

 『魔女の宅急便』の第3巻に、ケケというすごい女の子が出てきます。逆立った髪の毛で、ぞろんとした着物を着て、魔女か魔女でないのか分からないような風情のケケは、トンボさんともちょっと仲良くなってしまったりして、ずうずうしく、やっとこの町でうまく暮らしはじめたキキの安定した生活をどんどん浸食していきます。ケケは、渋谷辺りで見た女の子たちがモデルです。ガングロで、だらんとした洋服を着て、精いっぱい自己表現している女の子をじっと見ていると何だかかわいくて、こういう子を書いてみたいと思ったのです。

 人は何かしら自分を表現したいという気持ちを持っているものです。いつも何か気に掛かる、これは見てみたい、やってみたいと思うものは、大事にした方がいいと思います。今、若い人の暮らしは型にはまっていて、進む方向性が決まっています。しかも、若い人自身も、そのように進むことが安心だと思っています。しかし、これからは、型にはまった生き方ができない、大変難しい世の中になっていくのではないかと思います。そういう中では、周囲とうまくコミュニケーションをとりながらも、一人一人が、自分がどう進むかをきちんと捉え、想像力を持って生きることが大事になります。若い人には、自分がやりたいと思うことに、冒険するような気持ちで飛び込んでいってほしいと思います。そうすると、自分というものを見つけることができます。自分の進んでいく道を心を動かして発見していくことが、魔法なのだと思います。

 私は、誰にでも魔法の力はあると思っています。ただ、待っていても魔法は手に入りません。自分の好きなものを見つけ、毎日こつこつ努力してそれを深めていったところに魔法は落ちてくるのです。たった一つでいい、それを育てていただきたいと思っています。

作家・日本福祉大学客員教授

角野 栄子

東京都出身。早稲田大学卒業。
1959年から2年間ブラジルに滞在。1970年頃から童話や絵本の創作を始める。
『魔女の宅急便』(Kiki's Delivery Service)(福音館書店)で小学館文学賞、野間児童文芸賞、IBBYオナーリスト文学賞を受賞し、2009年、「魔女の宅急便 その6 それぞれの旅立ち」でシリーズ完結。『ズボン船長さんの話』(福音館書店)で旺文社文学賞。主な作品に「アッチ、コッチ、ソッチの小さなおばけシリーズ」(ポプラ社)、自選童話集「角野栄子のちいさなどうわたち」(全6巻)(ポプラ社)。その他、「なぞなぞあそびうた」2巻(のら書店)、「おだんごスープ」(Granpa's Soup 英語タイトル名)(偕成社)、「ラスト ラン」(角川書店)最新作に「ナーダという名の少女」(角川書店)
2013年 東燃ゼネラル児童文化賞受賞
2014年 「魔女の宅急便」実写映画化
2000年 紫綬褒章
2011年 第34回、巌谷小波文芸賞
2014年 旭日小綬章

※この講演録は、学校法人日本福祉大学学園広報室が講演内容をもとに、要約、加筆・訂正のうえ、掲載しています。 このサイトに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。

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