愛知、岐阜、三重の東海3県の私立大学62校(2025年現在)のうち、10年後、少子化の大波を跳ね返すことができる大学は何校かを予測することは難しいが、「偏差値の低い大学から潰れていくのでは?」「高校生に人気のない領域を有する大学は募集停止を余儀なくされるのでは?」といろんな推測が語られている。
ただし、必ずしもその通りに進むとは限らないだろう。何が起こるか分からないのが世の常である。しかし、18歳人口が横ばいで推移する29年までの5年間、有効な対策を打ち出すことができるかどうかが一つの分かれ道になることは間違いない。まさに最後のサバイバルの時代である。
学部改組、キャンパス移転、校舎のリニューアルなど、この限られた時間のなかで、一人でも多くの高校生を確保するための戦略が積極的に実施されるだろうが、同時に、留学生の受け入れも、一つの焦点になることが予想される。ただし、闇雲に留学生なら誰でもよいというわけにはいかない。数合わせだけを目的とした受け入れは、もはや時代遅れである。そもそも勉強よりもお金儲けを目的とした留学生はそれほど多くはない。
円安が進むなかで、日本の経済力に依存するような戦略を立てることはできない。むしろ留学生市場で少しでも優位に立つためには、教育、研究の質の向上、生活面、就職指導などのサポート体制の充実が不可欠である。言い換えれば、留学生の確保とは、私立大学の質そのものが世界に晒されることを意味する。少なくとも学費を安くし、学士号を簡単に付与するような大学は淘汰されることになるだろう。
今後、留学生の受け入れを行う大学では、厳しくも熱心に教育すること、丁寧なサポート体制が整備されていくことになるだろうが、教育の質の向上を考える上で、もう一つの大きな論点がある。それは、日本語教育である。現在、大学で学ぶためには、一定の日本語能力が求められ、近年、文科省からは、そのレベルの厳格化が示されてもいる。いわゆる闇雲に留学生を受け入れ、大学の存続を図るための道を閉ざすことが目的ともいえる。
しかし、このような方向性は、果たして時代の流れに即しているのだろうか。IT、人工知能(AI)が急激に進化する時代のなかで、日本語に限らず、言語力を問い続けることは時代の流れに逆行するのではないだろうか。かつて漫画やSF映画などに登場した同時翻訳機は、今、私たちの目の前に存在している。すなわち、同時翻訳機だけではなく、多くの便利な道具を使いこなせることを前提として、教育の質の向上を考える必要がある。
言語力だけが、人間の能力を計る指針ではない時代が迫り来るなかで、留学生だけではなく、日本人学生も同様に、最先端の技術を屈指しながら、大学という一つの実験場で、ともに学び、新たな時代を生きていくための人材を養成することができるかどうかが、少子化を生き抜いていくための大学に残された道ではなかろうか。
原田忠直 経済学部教授
※この原稿は、中部経済新聞オピニオン「オープンカレッジ」(2025年7月22日)欄に掲載されたものです。学校法人日本福祉大学学園広報室が一部加筆・訂正のうえ、掲載しています。このサイトに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。