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ひとがつくるまち

学園創立60周年記念
日本福祉大学まちづくり研究センター開設シンポジウム
「ひとがつくるまち」

講師:
山崎 亮 氏(studio-L代表、東北芸術工科大学教授、慶應義塾大学特別招聘教授)
日時:
2015年11月22日(日)

※所属や肩書は講演当時のものです。

 私は、東海市で生まれ、細井平洲記念館のすぐ下のところで2歳まで育ちました。幼かったので記憶は全くありませんが、東海市はなじみがあるまちです。今日は、私が関わっているプロジェクトの中で、人が中心の事例についてお話しして、それが徐々に福祉の方につながっていけばと思っています。

1.観音寺のまちづくり

 香川県観音寺市の人口は6万2000人です。やや少ないので東海市の方々は直接的には参考にならないかもしれませんが、人口が少なくなってきている所や、局所的に商店街がシャッター街になっている所は、全国にかなりあると思います。観音寺市の商店街も、全国どこにでもあるようなシャッター街です。

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 そこの商店主の方々は、30人ぐらい集まって、イベントをしたり特典を考えたりして商店街を活性化しようとしたけれど、全然売り上げが上がらず困っていました。商工会議所に相談に行ったところ、大阪にいる山崎というのが地域の人たちの力で地域を元気にしていこうという活動をしているらしいということで、私が呼ばれました。商店主たちはみんな50代以上になってしまっています。若い人がお店を出していないのです。私が「どうですか、最近の商店街は」と聞いても、おっちゃんたちは最近の話はしてくれません。「これでも1980年代ぐらいまでは、人と人の肩がぶつかるぐらいにぎわっていたんだぞ」という話から始まります。これはある種の洗礼のようなもので、「そうですか。それはすごいですね」と、まず受け入れないといけません。最近勉強したのですが、これは社会福祉の分野では非審判的態度と言われるそうですね。受け入れると、おっちゃんたちの目が象のように悲しい目になって、やっと最近の話ができるようになります。

 おっちゃんたちは、絶大なる自信を持って、全員一致で「商店街におもろいところなんかない」と言い切りました。しかし、案内してもらうと一つだけありました。人口減少最先端のまちに、最先端の状態が生まれていたのです。それがショップ・イン・ショップです。例えば、下着屋さんの片隅にケーキ屋さんが入っています。お父さんとお母さんが下着屋をやっていたのですが、息子がパティシエになり、ケーキ屋を開きたいのだけれど、空き店舗を借りて設備投資するのはリスクが高いので、両親がうちの棚を寄せてあげるから、ここでケーキ屋をやれということで入ったそうです。私はこれを発見したとき、身震いがして、すぐに写真を撮りました。これは女性にとっては夢の組み合わせです。女性が気に入った下着を手に入れると、うれしくなって甘いものが食べたくなります。すると、ケーキを売っているので、買って食べます。食べると太るわけです。太ると下着のサイズが合わなくなるので、また下着を買いに行きます。まさにこれはマッチポンプですよね。他にも、花屋・雑貨屋だけどカフェが入っていたり、呉服屋だけどパンも売っていたり、「ダイエークリーニング」の中に「餃子の大英」が入っていたりと、秀逸です。

 観音寺商店街では、1945年ごろからお店が増え、1970年代には商品を置けばじゃんじゃん売れました。しかし、2000年代になると郊外型の大型店舗やインターネットショッピングサイトなどが次々にできて、商店街になかなか買い物に来てくれなくなり、お得意さんが買ってくれるものしか棚に並ばない状態になりました。最近は地方の商店に行くと、どこもちょっと棚がスカスカです。こんな状態のとき、例えば息子がパティシエになって帰ってきたら、お父さんとお母さんは下着屋さんらしく棚を「寄せてあげる(上げる)」のでしょうね。そうして新しい業態が入ってくるわけです。

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 私は、もしそうだとすれば、別に息子でなくてもいいのではないかと思い、おっちゃんたちに、本業の他に土日だけカフェや雑貨屋を開いてみたいと考えている若い人に場所を貸してはどうかと提案しました。すると、おっちゃんたちは「ええやん」と言って、家賃の話をし始めたのです。私はただで貸してもらおうと思っていたので、なぜ自分が交渉しないといけないんだと思いながらもおっちゃんたちを説得し、家賃を数千円に設定して、商店街の店をショップ・イン・ショップだらけにすることを考えました。これが1年目のワークショップでした。

 しかし、おっちゃんたちには若い人たちと知り合うすべがありません。そこで、2年目のワークショップでは、どうすれば50~70代のおっちゃんたちが店を開きたい若者と知り合えるか、戦略を練りましたが、結局、何のアイデアも浮かびませんでした。しかし、ワークショップとは全然違うところに、おっちゃんたちが若い人と知り合うきっかけがあったのです。

 おっちゃんたちは、ワークショップよりも、その後の飲み会目当てで集まっているように思えました。「何か意見がありますか」と言っても、「いや別にないわ。本番はこの後やからな」などと言われるわけです。「本番がこの後なら、ワークショップはどないしてくれるんや」ということで、私はワークショップ後の飲み会を禁止したのです。おっちゃんたちは、約束は守ります。しかし、飲みには行きます。おっちゃんたちは一人ずつ、寂しそうに夜のまちに消えていき、ばらばらに自分の行きつけの居酒屋で飲むようになりました。

 すると、一人で飲みに行っても暇だったのでしょう。補聴器のお店をやっている竹内さんが、自分の飲んでいる様子を写メに撮って、Facebookに「今宵もはじまりました」とアップしだしたのです。別の居酒屋に飲みに行っていた人も暇なので、それを見て「あ、竹内さんがつぶやいた」「こっちもはじまりました」などと会話を始め、やがて「今宵もはじまりました」という名のFacebookグループが生まれました。現在、北は北海道から南は沖縄まで、さらにはインドネシアや韓国、台湾、香港など海外の人も含めて、1800人がこのページに登録しています。

 おっちゃんたちは、自分たちの活動は世界的に注目を集めていると思い込み、動画配信サイトを使って「今宵TV」というテレビ番組を始めました。それを聞きつけたJR東日本から連絡があり、神田駅の下にできた商業施設のバーから「今宵TV」をオンエアするということもあって、次第に観音寺の市民が集まるようになってきました。それでさらに調子に乗ったおっちゃんたちは、今度はグッズなどを作り始めたり、いろいろなイベントを行ったりするようになりました。そして、その準備などに若い人たちが関わるようになって、その中から雑貨屋、カフェ、ヘアサロンをやりたいという人たちが出てきたのです。

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 ショップ・イン・ショップのような手法は、建築の分野ではクロスプログラミングと言われます。全然違う要素を一緒に入れると、思いも寄らない変化が生まれてくるのです。こうした動きを加速するため、商店街では開業塾なども開いています。

 2年前からは、studio-Lが関わる全国各地のプロジェクトに携わっている人たちを集めて「今宵サミット」を開いています。第1回は観音寺、昨年の第2回は群馬県富岡が開催地で、今年の第3回は新潟県の燕で開かれます。

2.富岡のまちづくり

 群馬県富岡市は人口約5万人で、それほど多くありません。私は旧富岡製糸場が世界遺産登録を目指していた時期に、まちづくりを手伝いました。世界遺産になって多くの観光客が押し寄せても、翌年にはまた別の場所が世界遺産になって観光客が大移動し、土産物屋の空き店舗ばかりが残る光景を日本各地で目にしてきました。ですから、合言葉を「観光から関係へ」とし、富岡の人と仲良くなって、またあの人に会いたいと思って来てくれるようにしようと考えました。

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 まず、ワークショップを開き、100人ぐらいの方々から提案実行型の意見を出してもらいました。そして、4チームに分けて観光客と関係をつくるための活動を考えてもらいました。そこから生まれたプロジェクトのメンバーが、「スマイルとみおか(スマとみ)」という団体名で活動を開始しました。富岡のゆるキャラ「お富ちゃん」と一緒に市の健康体操をしたり、マスキングテープだけで古い家をリノベーションさせたり、まちなかでカラオケを歌い続けるという企画もしました。観光客が一人ではなかなか入りにくいクラブやバーを飲み歩く「酔いどれウォーク」も始まりました。

 しかし、4チームのうち、1チームだけ考えがまとまりませんでした。そのチームのメンバーだった大日方さんは、活動報告会当日、何を思ったのか、家にあった段ボール箱をかぶって、「富岡ロボット」になって現れたのです。富ロボはその後もまちなかを徘徊し続けました。すると、思いも寄らないことが起きました。富ロボには著作権がないので、富ロボバッジや富ロボシールなどのグッズが売られだしたのです。富ロボは、子どもたちにも人気になっていきました。

 富岡では、観光客が世界遺産を1回だけ見に来て帰っていくのではなく、富岡の人たちと知り合って関係性ができて、「またあのまちに行きたい」と思ってもらえるようなまちづくりを進めています。そのためにも、商店街の人もそうでない人もごちゃ混ぜになって、富岡の中心市街地を自分たちの遊び場として使いこなしてしまおうと考えています。

3.沼田町コンパクトエコタウン

 北海道沼田町には入院機能を持つ農協厚生連の病院があったのですが、年間2億円の赤字を出していたことから、病院を診療所化することになりました。町長のイメージは、中学校の広大な跡地を利用して小さい診療所をつくり、その隣に福祉施設や作業所、子育て住宅なども置くというものでした。しかし、行政と専門家だけでつくってしまったら、町民から「そんなものを勝手につくって」と言われてしまうので、建設に先だって町民と話し合いながら空間を決定していくことにしました。

 コンパクトタウンのような形にするには、中学校の跡地にどんな機能のものを入れていけばよいのかと考えて、周りのまちからの高齢者の住み替え、リノベーションによる若者の移住や起業、新規就労者の確保・定着、6次産業化やエネルギーの地産地消、在宅介護や介護予防など、全部を組み入れていきました。拠点化することによって、地域がどう変わっていくかという戦略を立てたのです。

 その後しなければならないのは、市民たちと話をすることです。私たちは、市民の意見を聞くワークショップを開くとともに、役場職員の研修会を実施しました。そして、この二つを合流させ、役場職員が司会進行役を担う形で、まず「これから塾」を開きました。市民100人に集まってもらい、全国から福祉・医療の先生を呼んで、超高齢社会への対応に関する最先端の話を聞きました。この時点では、参加者にインプットがなく良い意見は出てこないので、自分の意見を言うのは禁止しました。

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 次の「つながる塾」に移ったとき、自分の意見を言ってもらいました。地図を使って施設配置や予算のシミュレーションなどを行います。スタイロフォームという建築資材で作った模型を地図上に置きながら、みんなから要望が出た施設の配置を予算に応じて考えてもらいました。予算にある程度の枠が設定されると良識的な回答になるもので、おおむね三つほどの案にまとまりました。

 私たちがやるのは、こうした裏方の仕事ばかりです。もともと私は建築家なので、設計もできるのですが、自作自演のようになるので自分では設計しません。私たちは、市民と話し合う中から出てきた意見をまとめて設計者に伝えます。まとめ過ぎると設計者が嫌がるので、ある程度緩く、住民の意見をちゃんと入れる形で伝えています。

4.まとめ

 19世紀のイギリスの社会批評家ジョン・ラスキンは、「あなたの人生こそが財産である」と言いました。studio-LのLは、Life(人生)のLです。ジョン・ラスキンは幅広い分野の人から影響を受け、ラスキンもいろいろな分野の人に影響を与えました。19世紀のイギリスでは、建築関係、デザイン関係、都市計画関係、社会福祉関係の人が全てつながっていたのです。

 そのことに思い至ったとき、私の頭には1848年にイギリスで制定されたパブリック・ヘルス・アクト(公衆衛生法)が浮かびました。公衆衛生法は実は5年間の時限立法で、コレラやペストがはやると数十万人単位でロンドンに死者が出ることから、チャドウィックが議員立法で提出したものです。その後、それが2派に分かれます。ハード派の流れでは、3年後にシャフツベリー法ができます。住宅をきれいにしないと衛生状態は良くならないという法律です。これが建築基準法、都市計画法になり、近代のシティデザインとなって日本にも来ることになります。一方、ソフト派の流れでは、1871年にイギリスで王立衛生委員会ができました。第7代東京市長である後藤新平がとても影響を受けたものです。公衆衛生法は5年の時限立法だったので、1875年に新しい衛生法ができました。1948年には国民保健サービス(NHS)ができて、これも日本に入ってきました。

 私はずっと、パブリック・ヘルス・アクトから出てきたハードとソフトの2派が、いつまでも分かれたままでいいのかと悩んでいました。私は建築の分野から来ているので、バウハウスやフランク・ロイド・ライトなど、ハード派の人たちの影響を大きく受けています。その人たちが影響を受けているのは、アーツ・アンド・クラフツ運動の始祖であるウィリアム・モリスです。そして、その師匠がジョン・ラスキンであり、彼は慈善組織協会(COS)の設立時に多額の資金援助をしました。COSはアメリカを渡って日本にも入り、今の全国社会福祉協議会の流れになっています。そのため、ウィリアム・モリスたちの流れとジョン・ラスキンの流れが相互に行き交っていたのは当然のことなのですが、日本では両者が分かれてしまっているのです。

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 このあたりでもう一回、ハードとソフトの両方を語ることができる状態をつくっておいた方がいいのではないかと感じていたときに、今回の講演依頼があったのです。日本福祉大学にまちづくり研究センターが新しくできる、しかも自分の生まれ故郷の東海市にできるらしい。これはいいと思いました。福祉の大学とまちづくりに取り組むということは、ハードとソフトの分野が一緒になるということです。まちづくり研究センターには建築や都市計画の分野と医療や福祉分野の方々が集まってきているということなので、かなり可能性があると思います。

 地域包括ケアという言葉がいいかどうかは分かりませんが、今はまだ、これから国が超長寿社会に対して何をするのかというモデルが全く見えていない状態ですから、この大学、この研究所、このエリアから、「その手があったか」と全国の人たちがしびれるようなプロジェクトが生まれる可能性があるのではないかという気がしました。これからのまちづくり研究センターの活躍に期待しています。

studio-L代表、東北芸術工科大学教授、慶應義塾大学特別招聘教授

山崎 亮

1973年愛知県生まれ。 大阪府立大学大学院および東京大学大学院修了。博士(工学)。 建築・ランドスケープ設計事務所を経て、2005年にstudio-Lを設立。地域の課題を地域に住む人たちが解決するためのコミュニティデザインに携わる。まちづくりのワークショップ、住民参加型の総合計画づくり、市民参加型のパークマネジメントなどに関するプロジェクトが多い。「海士町総合振興計画」「studio-L伊賀事務所」「しまのわ2014」でグッドデザイン賞、「親子健康手帳」でキッズデザイン賞などを受賞。著書に『コミュニティデザイン(学芸出版社:不動産協会賞受賞)』『コミュニティデザインの時代(中公新書)』『ソーシャルデザイン・アトラス(鹿島出版会)』『まちの幸福論(NHK出版)』などがある。

※この講演録は、学校法人日本福祉大学学園広報室が講演内容をもとに、要約、加筆・訂正のうえ、掲載しています。 このサイトに掲載のイラスト・写真・文章の無断転載を禁じます。

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